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 早期教育VSスロー教育***その2

「早期教育VSスロー教育***その1」で、早期教育派とスロー教育派の意見や経験談を
取り上げてみました。

このブログを読んでくださっている方は、家庭保育園、七田式、公文式、DWE、ORT、
その他お教室など、多かれ少なかれ子どもの教育に関心がある方ですから、
みなさんどちらかというと早期教育派なのかもしれませんね。
私も上記のような「早期教育に分類されるあれこれ」は抹茶にさせてこなかったものの、
幼児教育のブログを書いている時点で、一般的には早期教育派なのでしょう。

早期教育派。

なんだか、もやもやっとする言葉ですね。(笑)
こと日本においては、悪いイメージがつきまとう言葉なので、『早期教育派と呼ばれるのは嫌』
と思われる方も多いのではないでしょうか。
私も無意識のうちに否定したいような気になります。

では、なぜそう感じるのかというと、『世間でよくいう「早期教育」とはズレがあるから』
だと思うのです。

私はこのブログを始めてから、リンクさせて頂いている方や更新履歴に残っている方など、
早期幼児教育をされている方のブログを拝見させて頂く機会が増えました。
そこで感じたのは、詰め込み式で行われる従来の早期教育…教育者からの一方的な
指示による早期教育…ではなく、個々の子どもの発達に合わせた自由な早期幼児教育が
主流になってきているということです。
「日経Kids+10月号」で紹介された早期教育派の意見や経験談の中では
「させる」という親の意識が目につきますが、そうではなく、子ども自ら「したい!」と
いうような早期教育を実践されている方がとても多いのです。
それは、科学実験で理科への関心を高めたり、良質な積み木で幾何の基礎を学んだり、
おままごとで数の感覚を磨いたりといった、昔の育児に近い、素朴な「早期教育」です。
私は、こうした早期教育であるなら、親は子どもに与えるべきだと思っています。

もちろん、「早期教育」の定義が何なのか、それは受け取る人によって違いますが、
「早期教育」と検索したところ、ウィキペディアでは、こう書かれていました。

早期教育とは、子ども本人ではなく保護者や国家などの意向で、一般よりも
年齢を繰り上げて文字や数、外国語、音楽、スポーツなどの教育を開始すること。


この文の中で大事なのは、「子ども本人ではなく」と書かれた部分だと思います。
逆に言えば、「子ども本人が望んでさえいれば」、それは早期教育ではなくなるとも言えます。
昨今「早期教育の弊害」という言葉を頻繁に耳にしますが、こうした場合についていうならば、
結果的に先取り教育をしてしまってもさほど問題はないのでしょう。

ただ、「子ども本人が望めば」という言葉を親の都合の良いように解釈して
「子ども本人が望んでいると思わせる」のは危険ですよね。
幼児期は、勉強が好きと思わせるような刷り込みよりも、子どもが自分の好奇心のままに
動くことの方が重要だと感じています。
そうでなければ、「自分は何に興味を持ち、何に没頭できるのか。そして何に没頭できないのか」
という意識が育ちません。
いつもいつも、だましだまし、自分と対峙しているからです。

「本当の自分を意識する」。
この感覚は強制のない自由な時間だけが育むものです。
そのため、私は抹茶に対し、常に「選択の自由」を与えてきました。
自由なので、お勉強的なワークを日々の課題にしたことはありませんが、
自由な時間を満喫してきたせいか、彼女は先日、「抹茶はね、難しいお勉強がしたいの」
と言い出したのです。
そして、「これ、これをやりたい」と、自分から「算数王」を引っ張りだし、解いていきました。

「算数王」を年中さんが学ぶのは先取り教育ですから、こうした行動を表面上だけ捉えて
「早期教育」と呼べば、たしかにそうかもしれません。
でも、私はこれを「早期教育」だとは捉えていません。
お肉ばかり食べていたら、「たまには魚や野菜を食べたい」と、身体が欲しますよね。
それと同じように、子どもは自分自身の内なる声に従って、「足りないもの」をきちんと
見極めているのだと感じています。

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17:20 | 教育論
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